まえがき

kaijinsha2005-02-05

 男は全力で走った・・距離や己の能力を完全に無視して、ただ自分出せる最高のスピードで風を切り裂いた・・・。

 この男に愛犬の危篤を知らせる一報が入ったのは今から約二時間前。
 男にとって妻より長い時間連れ添ってきた愛犬の死を看取ることは、もはや神からの至上命令であった。
 地味に、ただひたすら地味に暮らしてきた男、結婚12年で子供にも恵まれていない、愛犬はそんな男の生暖かいオアシスとして、長年つとめてくれたわけである。
 会社で一報を聞いた男は誰に何言うわけでもなく会社を飛び出し駅へと走りだした。
 愛犬がとうとうその鼓動を止め、この世からフェードアウトしようとしているらしい。希望と不安と悲しみと感謝、そんな全ての感情を涙に乗せて男はただひたすら家路を急いだ。せめて、せめてもう一目だけでもあいつに・・・感情は言葉にならない。
 電車を降り徒歩二十分の細い家路を誰よりも全力で駆ける男。きっとまだ生きている気がした。自分が全力で走レバ死なない気がしていた、必死に駆けて残り約500メートル。

 「きっと生きている・・・」ここまでくると男は唯一強い希望のみを願って走る。

 身体はとうに残量0を示して久しい。ここまでの平凡な人生、そのすべてを輝かしい栄光に変えてしまいそうな駆け足。頭の中ではロッキーテイストのBGMがかかる。
 震える身体、全ての細胞が脈打っているような熱い鼓動を感じた。が、しかし、現実問題、男は己の身体能力を無視しすぎていた。身体が奏でる「DoIt!」的な熱い鼓動とは相反して彼の体力は戦意を失い白旗すらあげている。
 軟骨は骨と骨を支えることをやめ、上腕二等筋は腕をたたんでももりあがることを放棄した、途端に男は崩れ落ちた。固体が一瞬で液化するようにバシャッと崩れて天を仰いだ。


 ・・・真っ白い時間の中、大の字の男はただ空を見ていた。


 ぼんやりと男は考える、「モシモ」あのまま止まらずに帰っても、どうせ死に目に間に合わなかっただろう・・はたまた、「モシモ」まだ生きているな「ラバ」あと三日は生き続けるはずだから、このまま当分休んでいても大丈夫だとも思えた。


 愛犬を頭の中で殺しては生き返らせてみた。


 男は何一つ自分は間違っていないように感じ、疲労感から、やたらすがすがしくなっていた。


 生きてたら・・死んでれば・・・・たら、れば、もしも、人間の思考の核兵器こと「タラ」「レバ」「モシモ」・・・言語界のトップファイター、仮定民族の最強戦士「たらればもしも」・・・たら、れば、もしもを発動させた男には 愛犬が死のうが生きようが、もはや問題ではなかった。

 なるほど 人間は過去を振り返り、たら、れば、もしも、未来を見据えて、たら、れば、もしも、勝手に宝くじで一億当ててみたり、試しに総理大臣に就任してみたりもできる。


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 「タラ」「レバ」「モシモ」・・・この連載では、そんな「仮定」で得られる幸福感にスポットを当てていこうと思ってるわけで、隔週で二週間に一度の土曜に書いていこうと思う。