夕焼けとベンツ

kaijinsha2005-03-05

 「この景色は俺のものだ」

 呼吸するついでに呟いた唇は、真冬丸出しの北風に長時間晒されたこともあり大根がおろせる程乾いていた。

 “・・今キスしたら俺の唇相手に刺さるなぁ・・”

 遠くアラスカからやって来た極寒の北風が心の隙間にしみていく・・・・真冬の湘南に沈む夕焼け、男はその景色を見る為にかれこれ150分直立でスタンバっている。右手には今朝コンビニで買ってきた使い捨てカメラ、左手には冷えきりゴミとなったホッカイロを力無く握り締め、ハチ公よりも忠実にただひたすら夕焼けを待っていた。が、しかし 無常にも空には一寸の隙も無く黒雲が敷き詰められており・・・暗い空を見ながら、男は薄々感付いていた。

 “もう陽は沈んでいるかもしれない、何が何でもこれは暗すぎる”

 自分を騙し否定し続けてきたが、どう譲歩しても現実は夜であり、黒雲の向うでサンセットは完了されていた。自分が忠実であり続けるならば最低23時間はこのまま待ち続けなければならないわけである。
 そもそも夕焼けを見に来た理由は特に無く、敢えて言えば暇だったからであり、夕焼けに執着する必要など何処にも無かったのだが。しかし 電車賃がここまで1200円掛かっていたことが妙に男を奮い立たせた。

 “青春とは待ち続けることである!!”

 全く訳の分からない名言が男の辞書に書き加えられ、その瞬間男のスイッチはオンのままアロンアルファで固められた。男の決意は切腹する武士と比べても見劣りをせず、ダイヤを削れる程固まっていたのである。
 斯くして、たった一人の直立24時間マラソン【あそこに立ってる奴は自分を救うことを拒否する】が始まった。深夜2時、カメラとカイロがついに手から落ちた。とっくに握力なんぞ尽きていたのだが、それでもなんとか精神力で指に引っ掛けていたカメラとカイロも 凍傷を前に砂浜へと身を投げたのである。恐らく男の指は二度と箸を持てないであろう、男の指は不覚にもこんなところでその生涯に幕を閉じたのである。
 静かすぎる湘南の夜はただ波の音のみが響いていた、サザー、ザザー、その一定のリズムが異常なまでに男の眠気を誘う。

 “寝たら死ぬかもしれない”

 極限の戦いである、平和な日本の湘南で男は局地戦を戦っていた。
 ザザー・・・ザザー・・・

 “俺は故郷に錦を飾るんだ”

 果敢に攻める男であったが、しかし波は少しの慈悲もなく攻撃の手を緩めようとはしない。
 ザザー・・・ザザー・・・

 “母さん・・ありがとう・・・”

 地球の70%を占める海に一介の男が勝てる訳もなかった。
 間もなく男は直立で硬直したまま眠りに就く、完走は出来なかった。

 ・・・目が覚めたのは正午も回ってからであった、さすがの他人に介入しない都会の人間も この異様な光景に痺れを切らして声をかけてきた。

 『大丈夫ですか?』
 「大丈夫です、僕のことは気にしないでください」

 奇跡的に男は目を覚まし声を発し主張した。

 『いや、でも病院行ったほうがいいですよ』
 「俺は夕焼けを見るんだ邪魔すんな!」

 男は魂だけで叫んだ。
 都会人は小首を傾げて去っていき、そういえば今日は雲一つ無く晴れていることに気付いた。犬の散歩で右から左、左から右へと横切る老若男女を眼球で追いつつ時間は過ぎていった、以外に呆気なく夕焼けはやってきたが、やはり留処無く涙が溢れた。
 仮死状態で体は動かなかったのだが、足元の使い捨てカメラを必死に撮ろうと手を伸ばそうとした。しかしとうに電源が切れた身体は眼球のみが運動を許されている状態が揺らがずカメラを諦め景色は記憶することにした。
 ふと呼吸が言葉になる。

 「この景色は俺のものだ」

 万感の思いを言葉に込める。
 男は無駄に達成感に包まれている自分に陶酔していた。

 少しすると左手に見える駐車場に一台の車が止まった ベンツである。男の眼球が険しく車を捕らえる。降りてきたのは若いカップルであった、二人は男の前まで来て散歩してるおっさんにデジカメでツーショットを撮ってもらった。

 「ヴォーー!!」

 とたんに男の体に電気が走り足元の使い捨てカメラを握り締めカップルの男目がけて160キロで投げ付けては絶命した。

 “でも夕焼けを見なかったら後悔しただろう”

 死にながら男は思った。