生きがい

“生きるということとは?”いきなり一介の鹿児島人にはデカすぎるテーマである、難しく考えてたら宗教ができてしまうこともある万年規模の難題、難しすぎてもう二年も色を揃えられないルービックキューブがよく見たら七色ある、みたいなもんである。つまり確かな答えなんか無いわけである。が、確かな答えなんか無くても最低限の答えが有るのが“生きる”ということであり、僕がここに一つの答えを定義するならば、“飯を食うこと”これが答えであると思う。飯を全く食わずに生きてる奴なんていないわけで、結局人類は飯を食う為、食わせる為に働いているわけで、子供も食えるようになるために勉強しているわけである。 しかし、飯を食ってはうんこを作り、食わせてもらってはうんこを作る そんな掛け捨てエンドレスの生活に虚しさを感じてしまうのも仕方がないことである、そこで、そんな虚無感の埋め合わせに登場するのが“生きがい”である、最高のパターンとしては仕事そのものが生きがいであればいいわけだが、なかなかうまくも行かないもんで、皆
なにかしらに生きがいを見つけてなんとか生きているわけである。誰にでも生きがいはあるわけだが、学生としての(大学三年生)僕の生きがいと言えば、ずばり友人を困らせることである。ゴキブリを見つけた主婦が意地でも叩き殺すように、僕も友人を目の前にしたら、意地でも「もう、やめてよ!」の一言をもぎ取りにかかってしまう。毎回笑いのうちにほとんど和やかに事が運ぶのだが、稀に友人が彼女に振られた時のように、しみったれたネガティブオーラを纏っている時があり、「おっ、振られたって。そりゃそうだぞ。」とストレートに傷つけてしまう。少しばかり他人に迷惑を掛けてしまうのが難点だが、それなしでは親に誓った大学卒業を成し遂げられない空気を敏感に感じているので 友人には悪いが 俺の自己満足に目をつぶってもらおうと思う。 しかしながら “生きがい”は深いテーマである、掘り下げていったらそのまま地上の光が届かなくなりそうである。生きがいについてはまだ思うところがあるので、来週募る思いをぶつけようと思う。